教員を辞めたい…もう死にたいとまで考える人へ

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私のブログにたどり着いた人の中には、教員を続けるかどうか本気で悩んでいる人もいるはずです。

精神的に疲れ切っていて「もう死にたい」とまで考えるようなことがある方は、まずこのページを読んでください。

目次

死にたいほど「辛い」と感じる気持ちだけを見る

20年間教員をしていた私ですが、実は、教員生活2年目で一度ダメになりました。療養休暇のあと休職し、結局半年間休みました。 私自身の話は後ほど紹介します。

ぴーちょこ

この2年目の経験があったから、最後は冷静に退職できたと思います。

精神的に追い込まれてしまうのは、どんな先生なのでしょうか。私自身の分析も含め、周りでうつになってしまった先生方の特徴を見ると、以下のような点があるように思います。

  • まじめで責任感が強い。
  • 仕事を適度に抜くことができない。(完璧主義)
  • 人に頼ったり、相談したり、任せたりするのが苦手。
  • 失敗したことを引きずりやすい。
  • 同僚や保護者からの目を気にしやすい。
  • 頼られるとなかなか断れない。

追い込まれる先生は、責任感の強い人です。子どもたちや保護者にとっては「いい先生」と言われている人たちだと思っています。

そう書くと、私も「いい先生」になってしまいますが、いい先生かどうかはさて置き、責任感が強かったことは間違いありません。そのため、仕事を抱え込み、うまく相談できず、突如仕事に行けなくなってしまいました。

今、辛くてどうしようもない思いをしている先生に向けて書きます。 まず、辛いと感じる理由はなんでしょうか。

・ 仕事が忙しすぎて、肉体的・精神的に参っている。

・ 職場の人間関係がよくない。(嫌な管理職、嫌な同僚)

・ 生徒指導での悩みがある。(手に負えない児童生徒、学級崩壊)

・ 保護者とうまくいっていない。(保護者からの過度の要求、クレーム)

・ 辛いという現状をわかってくれる人が周りにいない。

・ 教えるという仕事以外のことが多すぎて、思っていた教師の仕事と違う。


はっきり言って、理由なんてどうでもいいです。今、あなたが「辛い」という事実だけ見てください。

追い込まれるほど疲弊している人に、私は「がんばれ」とは言いません。「がんばるな」と言います。

なぜなら、これまでがんばってきたのに、辛くて仕方がない思いをしているのですから。

きっとあなたは、「もう嫌だ!」と思いながら、心のどこかで、「教え子たちに迷惑をかける」「学校に迷惑をかける」という気持ちをもっています。だって、あなたはまじめな先生だからです。


ただ、絶対、「死」を選ばないでください。

ただ、「だれかに迷惑をかける」という気持ちがふっと切れた時に、「死んでもいいかな」なんて心理状態になります。

この後、私が教員2年目に、死ぬことまで考えた話を紹介します。

死ぬことを考えた教員2年目の話

正直言って思い出すのは辛いことですし、生々しい話になるので、紹介しようかどうかためらわれるのですが、これを読んでいる誰かの助けになればと思い、紹介していきます。

なお、当時は精神的に病んでいたので、記憶が断片的に抜け落ちているところがあります。もしかして、話がわかりにくいことがあるかもしれませんが、ご了承ください。

教員人生1年目 ~希望に満ちた船出~

教員採用1年目。講師経験もなく、新卒でピカピカの教師として4月を迎えました。

分からないことだらけの毎日でした。4月当初は、学年主任の先生と着任式でどう話すか練習しました。「表情がかたいよ」「子どもに印象付ける話の内容はない?」など、今振り返ると、とても懐かしい思い出です。

授業は、はっきり言ってどうしようもないくらい下手でした。それでも、子どもの心をつかむために、授業で足りない分を補おうと、休み時間は一緒に遊んだり、毎日学級通信を出したりしました。

1年目ということで、保護者に心配を多々かけたと思いますが、逆に保護者に助けていただき、無事に1年を終えることができました。

来年もがんばろう!という気持ちと同時に、教師ってやりがいがあるなと感じた1年目でした。

教員人生2年目 ~過労、うつ、休職~

体育主任の仕事に追われる毎日

教員2年目。4月に与えられた大きな校務分掌は「体育主任」でした。周りの先生方から「大抜擢だね」と言われたことを覚えています。勤務していた小学校は、1学年が3~4クラスある比較的規模の大きい学校でした。そのため、職員数もそれなりにいるため、2年目の若造がやらなくてもいい環境ではあったのですが…。大抜擢かもしれないし、大抜擢という建前で若者に押し付けたのかもしれないし、それは今となってはわかりません(笑)。

前年度の体育主任の先生は異動してしまったので、直接聞きながら仕事を進めるということができませんでした。というか、仕事の進め方そのものがよくわかっていませんでした。

体育主任と言っても、一人で仕事に取り組まなければならないわけではなく、「体育部会」というものがあり、チームとして取り組みます。しかし、2年目の私は、それがうまくできませんでした。

体育部会の先生は、キャリアも長いベテランの先生で、「一緒に相談してやっていけばよいからね」と言ってくださっていたのに、私が未熟だったために、うまく相談できず、その日暮らしでギリギリになってしまうことが多々ありました。その原因を探ってみると、

体育関係の行事の年間スケジュールを自分が把握できていない。そのため、計画的に体育部会の先生に相談する機会を設定できなかった。

いろんな失敗もしました。例えば、プールの水質検査があることを忘れており、検査日当日、いきなり授業中に呼び出されました。忘れていた上に、プールの塩素が抜けきっており、管理の問題も含めて叱られました。

もちろん、自分の失敗なので、言い訳はしません。今振り返れば、そんなに難しいことではないのにと思いますが、当時の私はその程度の実力でした。

効率の悪い学級運営

体育主任の仕事に追われていましたが、学級の仕事も効率が悪く、時間をかけてこなしているという感じでした。1年目に毎日出していた学級通信を2年目も続けようとし、毎日出そうとしていましたが、だんだん発行回数は減っていきました。

「学級通信を出すことが1番の仕事じゃないでしょ!」と今なら当たり前に言えることなのですが、当時の自分は変な意地があったのだなあと思います。

授業の準備にも必死でした。毎日、夜遅くまで、午後11時や12時といった時間まで仕事をしていたこともあります。とにかく必死にやっていました。

大変な保護者や児童の対応も重なる

いろんなことは重なるようで、保護者対応でもいろんなことがありました。

給食の時間にけんかになったA子とB男。初めは口げんかだったが、その後、A子がB男の給食のおかずに牛乳をかけた。かっとなったB男はA子の頭を叩いた。双方を呼び出し、指導。けんかになった原因を聞き、どう行動すればよかったのかを考えさせた後、お互いに相手にやってしまったことを謝罪させた。

その翌日、B男の母から怒って電話がかかってきました。理由は、「うちの子が謝らなければならないのはおかしい」ということ。けんかなので、お互い様の部分があるし、暴力をふるったことは間違いないので謝らせたと説明しましたが、「相手が先にしかけたから、うちの子は悔しくて叩いてしまっただけ。謝る必要はない。」との言い分でした。

結局、納得されないまま、一方的に怒って電話を切られました。

以前から、家庭での虐待の疑いがあったC男。ある日C男の母から、夜10時くらいに、私のところへ電話がかかってきた。(自宅だったか、携帯だったか覚えていません。なぜ、自分の電話番号を知っていたのかもよくわかりません。)急いで、C男の家へ家庭訪問。母が言うには、「叱ったら家を出ていったまま帰ってこない」とのこと。最終的には、警察に保護されるという形で、C男は見つかった。

やはり、C男は母親から虐待を受けていました。この日はわからなかったのですが、後日、夕方にC男が直接学校に助けを求めに来ました。腕を見ると、棒で殴られたようなあざがあり、暴力を受けたことをはっきり確認することができました。

死を考えるきっかけになった夏休み

多忙で疲弊しながらも、何とか1学期を乗り越えることができました。夏休みとなったことで、少し時間の余裕ができました。しかし、この時間に余裕ができたことで、当時の自分はさらにマイナス思考へ走る契機となってしまいました。

当時の勤務校は、9月に運動会を実施していたので、夏休み中に本格的な準備(正確には7月頃からでしたが)をしなければなりませんでした。

体育主任にとって、一番の大きな行事です。しかし、夏休みが終わりに近づく8月末頃から、だんだん気持ちが落ち込んでいきました。

発売当時、批判の相次いでいた自殺に関する書籍を購入し、それを読んでいました。死に方を探していたのですね。どうしたら楽に死ねるのか、死ぬなら楽な死に方がいいな、なんて思っていたのだと思います。客観的な書き方で申し訳ないのですが、自殺することに関心があったのは事実なのに、当時の感情が思い出せないのです。

はっきりしているのは、誰にも相談せず、非常に落ち着いた静かな状態だったことです。

9月当初、出勤できなくなった

教員の方ならご存知の方も多いと思いますが、児童生徒の自殺が最も多いのは、9月1日です。夏休みが明け、実際に学校が始まってしまうと、張り詰めていた糸がプツッと切れるのでしょう。私はそれを自分自身で体験しました。

ぴーちょこ

ここから生々しい話になります。

私の場合、正確に言うと、家に帰らずそのまま出勤しなかったのです。

1日目。9月当初、通常通り勤務し、その日は午後7時くらいに学校を出ました。気持ちは穏やかだったように記憶しています。

そのまま、ホームセンターへ行き、丈夫なロープとそのロープが切れるハサミを購入しました。もう、どういうつもりかお分かりかと思います。

その後、携帯の電源を切りました。

そして、そのままあてもなく車を走らせ続けました。寝ることもなく夜通し車を走らせました。何となくワクワクしていた記憶があります。そして、朝方になって車内で少し眠りました。

2日目。死に場所を探していたのです。誰にも見つからないところがいいなと思い、山の中へ行こうと思っていました。途中で温泉を見つけ、「体をきれいにしていこうかな」という気分になったので、そこで入浴していきました。

そのまま、その日も夜を迎え、どこかの駐車場で眠りました。

3日目。さらに車で移動し、いよいよここが死に場所かなというところを見つけました。ただ、実際に確認しなければと思い、車を降りて山の中へ入っていきました。丈夫そうな木いかなと思えたので、一旦車に戻りました。

ここで、携帯の電源を入れました。すぐに、たくさんの電話やメールの着信が入りました。家族からの連絡です。当然、私のことを心配してのメールです。不思議と心は動かされませんでした。さすがに、通常の精神状態ではないですよね…。

メールを見ている途中、親からの着信が入りましたが出ませんでした。私は、「ここで人生を閉じます」とメールで返信し、電源を再度切りました。

夜になり、辺りは暗くなりました。

山の中に入るには、車を置いて歩いていかなければなりません。そこで、身元がわからないよう、車のナンバープレートを外そうと思いました。前のプレートはドライバーで外せたのですが、後ろのプレートは封印がしてあり、外すことができません。何とか取れないかとやっていましたが、結局諦めました。

そうこうしているうちに、何だか疲れてしまい、そのままその日は眠ることにしました。

4日目以降。ここから、日にちの感覚がなくなっています。というか、記憶が欠落しているところがあり、よく思い出せないのです。

3日目に死にきれなかった自分ですが、人目に付かない夜に行動しようというこだわりがあり、日中は適当に車を走らせていました。ただ、夜になるとなぜか死ぬことをためらうようになり、行動に移せなくなりました。時間がたったというのが、結果的に良かったのだと思います。

そして、数日後。車を走らせている時、後ろからパトカーが来て、呼び止められました。

私の捜索願が出されていたようで、ナンバーから割り出されたようです。住んでいるところからかなり離れたところまで来ていたのですが、地元のナンバーではなかったことから発見されたのだと思います。

そこから私は近くの警察署へ連れていかれました。

生きて家に帰る

私は警察署で待たされました。取調室みたいな個室でした。最初に対応した警察官は、「どうしてこんなことをしたんだ」「家族が心配しているぞ」などと言ってきましたが、はっきり言ってうっとうしかったです。

その後、交代で来た警察官は何も言いませんでした。何も言えなかったのかもしれないし、興味がなかったのかもしれませんが、私としては黙っていてくれてありがたかったです。

どれくらいたったでしょうか。家族が迎えに来ました。家族だけでなく、親戚のおじさんやおばさんも一緒に来ました。顔を見た時、私は自分がいかに愚かなことをしたか、恥ずかしながらそこで初めて気が付いたのです。

家に帰る道中、私は自分の思いを吐き出し、思い切り泣きました。そして、死ななくてよかったと本気で思いました。

家に入り、私が真っ先に向かった場所は仏壇でした。手を合わせ、深々と頭を下げました。

母から後で聞いた話では、警察から私が保護された話を聞いた時、父はおいおいと泣いたそうです。頑固であまり感情を出さない父を、本気で心配させてしまったことを心から後悔しました。

ともかく、私は生きて家に帰ってきました。ほんのわずかなところで、私は死ぬことなく、今を生きています。

ぴーちょこ

もう親にこんな心配をかけてはいけないと、強く心に誓いました。

休んでOK、無断欠勤でもよい!

辛くて仕方がないなら、学校を休んでください。

学校に迷惑をかけるなんて思ってはいけません。学校は何とかなります。インフルエンザにかかって、一週間担任が休むというクラスがあっても、誰かが補欠に入って何とか回っていますよね。

私も自分が休職してわかりました。学校という組織は、誰かがいなくなってもきちんと機能するようになっています。(もちろん、そうでないと困るのですが。)

あなた自身を守るために休むのです。遠慮なく休んでください。

電話をかけることがためらわれる人は、無断欠勤でもよいです! 無断欠勤すれば、きっと学校から電話がかかってきます。携帯にかかってきても無視してください。携帯の電源を切っておいてもよいです。

そこまであなたを追い込んでしまった職場に、あなたの困り具合をわからせてやればいいと思います。

外部の雑音を全部シャットアウトして、あなた自身を過酷な状況から遠ざけてください。大丈夫、何とかなります。学校のことなんか一度忘れてください。あなたを守ることが一番です。

あなたの命以上に、大切な仕事ってありますか?

アンパンマンだって顔が濡れたら力が出ない

休むことを「仕事から逃げ出すこと」と考えなくてもよいです。自分は休んでしまったダメな人間だと思う必要もありません。

世の中には、たくさんの先生が精神的にやられてしまって休みを取っています。

正義のヒーローアンパンマンだって、顔が濡れたら力が出ません。今のあなたは、心がずぶ濡れになって、力が出ないのだと思います。

心が入れ替われば、また元気を取り戻せます。

私がアンパンマンで好きなところは、顔が濡れたり変形したりしたら力が出なくなるけど、ジャムおじさんやバタコさんがそれを救ってくれるところ。そして、顔が濡れたアンパンマンを決して誰も責めないところです。

ストレスへの耐性は、人によって大きく異なります。「この程度のことで休んじゃいけない」なんて思う必要はないです。もちろん、現在のあなたの状況に耐えられる人もいます。そういう人は、「もう少しがんばってみたら」と言うかもしれません。でも、あなたはあなたです。あなたが教員を辞めたい、辞めることしか考えられないというのであれば、それは脳があなたへ警告していると思ってください。

「教員を辞めたい」と言えるうちに、一度仕事から離れることを検討してください。私のように、本気で死を考えるようになると、負の感情が先行して、周りのことを考えられなくなってしまいます。

まずは学校現場から離れてみませんか。

自分を大切にすることは、家族を大切にすること

私が2年目にダメになったとき、家族や親類にずいぶん迷惑をかけました。

もし、あなたが精神的に追い詰められていれば、自分のことしか考えことができません。実際に、2年目の私がそうで、軽率な行動をしてしまいました。

両親は、私が休むことに何も言いませんでした。私が疲弊しきっていた様子を知っていたからでしょう。頑固な父を泣かせてしまったという経験が、今の私の生き方に大きく影響しています。

あなたにも家族がありますよね。まだ若い先生かもしれないし、小さなお子さんをもつ中堅の先生かもしれない。ベテランと呼ばれるようになってきた先生かもしれない。

でも、どんな先生にも大切な家族があると思うのです。 自分を大切にしてください。それが家族を大切にすることにつながります。

生きていればいいじゃない!

詳しくは、別記事に記載してありますが、休んでいる間、つまり病気休暇や休職の期間中であっても無収入にはなりません。 お金をもらいながら、ゆっくり心を休めてください。

教員を辞めるつもりであっても、もらえるものはもらいながら、ゆっくり考えたらいいと思いますよ。私は好きな音楽をやったり、のんびり釣りに出かけたりしました。


現状に耐えられないなら、休むことは決して逃げではありません。これからの自分のために前進することです。

生きていればいいじゃないですか。

一個人の私の文章を読んでいただき、ありがとうございました。お力になれたかわかりませんが、今後のことを考えるきっかけにしていただけたら幸いです。

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この記事を書いた人

元教員。
公立の小中学校で20年間勤務した経験を生かし、今をがんばる先生方を応援するサイトを作っていきます。

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